Story創業秘話

ふくろうの創業秘話

株式会社パッシオーネ 代表取締役 佐藤 智雄 / 株式会社パッシオーネ 専務取締役 富田 美雪

40歳という人生の折返し。
一国一城の主になると
固く決意して脱サラ。

ブティックを経営している会社に勤めていた頃、仕事に対して疑問を持つことがありました。ブティックで接客していますから、その時に流行っている洋服の色だったり形だったりと、トレンドを売るような感じですよね。お客様に似合ってるかどうか、喜ぶかどうかではなく、トレンドを売る仕事。もちろん買っていただけないこともありますから、そんな日は自分の労働に価値がないわけです。 なので、お客様からダイレクトに反応がもらえる正直な仕事をしたくて、飲食店のことを考えました。飲食店にご来店いただくお客様は、必ず商品をお召し上がりいただけますし、それに対して感謝とお代金をいただけますからね。

27歳の時に、勤めていた会社の社長にその考えを話して、飲食部門の立ち上げを提案しました。飲食業界のことはわかりませんでしたが、東京で色々食べ歩き、名古屋にはまだない業態のフランチャイズ加盟店として、最初の飲食店を名古屋に立ち上げました。その後、複数の店舗を立ち上げていく中で、FCの本部での打ち合わせのために東京に向かう途中、新横浜で新幹線を降りてラーメン博物館に寄ることがありました。

ラーメン博物館は、ミニラーメンみたいなものが用意されていて、いくつも食べられるようになっていたんですが、その時に山形の「からみそラーメン」に出会いました。「こんな味噌ラーメンはじめてだ」って、衝撃を受けたことを覚えています。確か36歳か37歳くらいの頃だったかと思います。他にもプライベートで福岡に行ったとき、美味しいラーメン店があって衝撃を受けました。それからは、東京に行くときはラーメン博物館のからみそラーメン、福岡に行く時は衝撃を受けたその店にしかいかなくなるくらい、ふたつのラーメンに心を奪われていました。

40歳が近づいてくるなかで、ちょうど人生の折り返し地点だと感じていましたので、今このタイミングを逃したら、ずっとサラリーマンとして過ごすのではないかと思って、一国一城の主になるべく決断をしました。ラーメン店をやろうと、40歳でサラリーマンを辞めたんですね。

ただ、山形のからみそラーメンと福岡の豚骨ラーメンのどちらかで修行するつもりだったのですが、そこはかなり悩みました。ですが、名古屋で店をやるつもりだったので、味噌と辛いものが名古屋にはありますから、からみそラーメンでチャレンジしようと決めたんです。それから、からみそラーメンの発祥の地である山形の赤湯に行って、強引に修行させてくれとお願いしました。あとで聞いた話だと、そこは何人も修行させてくれと来たらしいのですが、全て断っていたようです。ですが、仕事も辞めて修行させてくれるまで帰らない覚悟で挑みましたから、その気概を感じていただけたようで、初めて修行させることを許可したようでした。

実際には、ラーメンの作り方を直接教えていただけることはありませんでした。やらせていただけたことといえば、皿洗いやまかないとして自分のラーメンを作るくらいでしたので、営業時間外に仕込みをする様子を見せていただいたり、皿洗いの仕事が一段落したら営業中の仕事の仕方を覚えたりと、からみそラーメンが作られていく工程をとにかく勉強しました。

いつ潰れてしまうか分からない
恐怖の毎日。
それでも一筋の光明が見えた。

結局は山形のそのお店でラーメンを作らせてもらえることはなかったですね。名古屋に戻ってきてからは、フリーターをやりながら物件を探す毎日でした。朝はスーパーの品出しをして、昼はラーメン店でバイト、夜は不動産屋にいって物件探しという感じです。この時に働いていたラーメン店の先輩スタッフが、いまうちで専務を勤めてくれている富田なんです。めちゃくちゃ仕事ができる人だなって印象でしたね。

そんな毎日を過ごしながら1年7ヶ月目にして、ようやく物件が見つかりお店を出すことになるんですが、手元に300万円しかなく、このお金をつぎ込むのは先々を考えると心配でしたので、国金で300万円借りてお店作りをはじめました。

そして、一緒に働いていた富田を誘って、からみそラーメンを名古屋の味覚にカスタマイズし、お店を開くことになります。からみそラーメンふくろうの1号店が開店したのは、2013年の6月4日、43歳の時でした。

いざオープンしてみると、すぐに梅雨が開けて暑い時期になってしまったこともあり、客足は遠のいてしまいました。1日10人くらいしか来なかったことなんてよくありましたよ。たくさんのお客様に来ていただけなくても、来ていただける方のためにスープを仕込まなければいけないので、仕入れはしなければなりません。 でも、全て売り切れるどころか、スープのほとんどが残ってしまい、捨てなければいけないような毎日でした。かと言って店を開けないわけにはいかない、スープを作らなければ売るものがない、完全に悪循環でしたね。

オープンから2ヶ月後の8月のあたまくらいには貯金も底が見えていて、富田には悪いですが、給料が払えないから元の職場に戻るように言いました。すんなり受け入れてくれるのかと思っていたんですが、「戻らない」と言われたんですよね。

「辞めてきたところに戻るなんてことはできない。雇ってもらえない状況なんであれば、別の仕事を探します」と言われて、自分は軽く考えすぎてたし、とんでもないことを簡単に言ってしまったんだと気づいて、泣いてお詫びをしました。また頑張るから一緒にやろうと伝え、いつ潰れてしまうか分からない恐怖の中、もう少しだけ二人でお店を続けました。

やはりお客様は一日数人という感じでしたが、8月のお盆くらいの時期に「究極のラーメン」という雑誌を発行しているという会社から電話があったんですね。電話で「この秋に発売される究極のラーメン2014の新店部門で1位です」って。
お客様、全然来てないのに1位?それがなんで1位なの?って思いましたよ。詐欺なんじゃないかって思ったくらい。

でも実は、お越しいただいていたお客様の中にラーメンマニアのような方がたくさんいたみたいで、投票してくれたって話でした。10月にその雑誌が発売になるから、取材させてくれってことだったので、一筋の光明が見えたような感じでしたよ。10月に雑誌で紹介されるわけですから、あと2ヶ月なんとか持ちこたえたらいけるんじゃないかって思いました。

初めての満席。
多くの方々に支えられてきました。

貯金もないし、材料も買えない、妻と子供が暮らす自宅の家賃も3ヶ月滞納している。なんとか2ヶ月頑張るために、先輩に相談したら二つ返事で50万円貸してくれました。そのおかげで10月まで持ちこたえることができたんです。

そして、10月の雑誌が発売された週末に、初めてお店が満席になったんです。外を見たら、お待ちになってるお客様もいました。あの時の電話で感じた一筋の光明は、これだったんだと実感しましたね。そんな日がしばらく続きました。それからはテレビの取材があったり、別の雑誌に取り上げられたり、いろんなメディアで扱ってもらえるようになって、現在では10店舗以上にも広げることになりました。

40歳で脱サラし、今に至るまで支えてくれた皆様には感謝しています。
ご来店くださったお客様、同じ方向を向いて一緒に働いてくれている仲間、一番辛い時期に頑張ってくれた専務の富田、お金を貸してくれた先輩や、応援してくれた家族。皆様の支えがあったからこそ、からみそラーメンふくろうの今があります。

43歳のときに立ち上げた、からみそラーメンふくろう。お店の名前を娘に相談していた時に、ふくろうがいいと言われました。娘が、小さな子どもでも読めるようにと、ひらがなで「ふくろう」と書いてくれて、それが今のお店の看板にもなっています。

そして、最初に作ったふくろうは、本店として北区の辻町にあります。あのときの苦労を忘れること無く、そして辛い時には娘が書いたふくろうの字を見て頑張ってきました。まだふくろうのラーメンを召し上がったことのない方もたくさんいらっしゃいますが、来ていただけた時のためにご満足いただけるよう、努力し続けることをお約束いたします。